歴史
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談山妙楽寺の別院として奈良時代に創建
聖林寺の創建は古く、奈良時代の和銅5年(712)に、談山妙楽寺(現 談山神社)の別院として藤原鎌足の長子・定慧(じょうえ)が建てたとされています。
幾度か火災に遭い伽藍が焼失しますが、江戸時代中期、大神神社の神宮寺の一つ、平等寺の僧侶・玄心律師が再興。以後、神宮寺との交流が深くなり、天台寺院である妙楽寺の山内にありながら、聖林寺は真言宗の律院として明治時代まで栄えることとなりました。享保年間から安産・子授けの寺として信仰
もとは「遍照院」と称していましたが、享保年間(1716~1736年)に妙楽寺の大僧正・子暁によって「聖林寺」と改称。
同じ頃、聖林寺の文春は女人泰産を願い、大石仏造像の願をかけて諸国行脚の旅に出ます。4年7ヶ月に及ぶ托鉢による浄財を集め、現在の本尊である子安延命地蔵を建立しました。 安産・子授け祈祷の寺として、その霊験は広く知られるところです。優秀な僧侶を排出した幕末の学問寺
江戸時代中期から明治時代にかけては、学問所としても名を広めました。
中興である大桂和尚の名は畿内一円に及び、郡山藩の大名行列も上人が乗る駕籠に道を譲ったと云われています。
また、明治時代初期には叡弁・一源の両上人が才を認められ、法隆寺山内の北室律院に迎えられました。叡弁和尚は真言教学の発展と整備を努め、一源和尚は独自の灌頂の法則(受戒の作法)を確立。後に一源和尚の徳を称え、その法統を受け継ぐため、大和・河内の70もの寺院が参集しました。彼らは「一源派」とも呼ばれ、聖林寺の門前に建つ大界外相(律院の結界を示す)の碑が、慈雲尊者の揮亳なのもその縁によるものといえます。フェノロサが秘仏の禁を解いた“国宝・十一面観音”

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聖林寺の春|Shorinji-temple
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聖林寺 新四国八十八箇所
聖林寺の裏山には、大正時代に設けられた、四国八十八箇所を模したミニ遍路道があります。
【注意】お遍路をまわられる際は、必ず寺務所に氏名、携帯電話番号をお伝えください。受付時間 9:00~15:00
山林の道沿いに、四国の札所のご本尊さまとお大師さま(弘法大師)の石仏を並べて安置しています。
山門から北に300mほどの旧聖林寺橋から始まり、ぐるっと山道を一周し、大師堂に到着すると「結願」。八十八箇所を巡礼したのと同じご利益が得られるとされています。
一周約1時間。