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国宝十一面観音

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本尊・寺宝

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寺号について、霊験あらたかなご本尊、十一面観音が当寺に来られた真実、学問寺としての顔など、
聖林寺 第12世住職(元住職)倉本弘玄師が存命の折、聖林寺について綴り現代に残した貴重な言葉をご紹介します。

  • はじめに

    霊園山(りょうおんざん)・聖林寺は、大和・桜井の街外れ、多武峯街道がようやく山ふところに入ろうとするとき右手に見える談山山系の前山・安部嶋山の中腹にあって、静かな落ち着いた、たたずまいを見せる山寺である。すなわち、この寺は大和盆地の外周の東南端に位置する。
    小高い所にあるだけに、門前から北を望む眺めは又格別である。美しい三輪山の山稜、それに箸墓など古代大和の古墳が散在する盆地の東半分が絵巻物のように展がる。ここからは奈良の都はさすがに遠いけれども若草山焼の時には赤い炎が北の空を明るく染めて燃え上がるのをはっきり認めることができる。

    紫の三輪の山並み夕ざれて 身まま欲りして この丘に立つ

    古美術界の泰斗丸尾彰三郎先生が、この寺を訪れて拝み見たかったのは、もちろん国宝十一面観音さまの優美なお姿であったろうが、ここから望む三輪山と盆地の景観も又捨て難い。

  • 聖林寺の寺号

    聖林寺の歴史には分からないことも多い。多武峯二十六勝志に見るように、この寺は談山・妙楽寺(現在の談山神社)の支院の一つであり、藤原定慧を開基としている。明治初頭の神仏分離のとき、談山山中の伽藍が尽く神社に改装され、山中の塔中すべて民家に還俗した中で、唯一仏教寺院として残る幸運を得たのである。 さて、聖林寺という洒落ていて少々近代的な響きのある寺号は一体何に由来するのだろうか。

    享保のころ、秋篠寺から妙楽寺に入った談山の座主、大僧正・子暁は当時遍照院と呼ばれていたこの寺に空号になっていた聖林寺を当てたという。ところが、元の聖林寺については、その存在さえ何時まで遡るのか分かっていなかった。近年(昭和六十二年)元興寺文化財研究所の調査で山添村の寺院から鎌倉初頭(一二〇五年)の写経が見つかり、それによってこの寺が意外に古いことが確かめられた。奈良時代と言わずとも聖林寺は鎌倉の初めには存在していたのである。聖林寺の有り様を示す古い遺物や資料は残念ながら何一つ残っていない。山寺の多くがそうであるように、誰が何年に建立したということでなく、信仰の場としていつのまにか寺院の姿を整えて妙楽寺の支院になったのであろう。その間、幾度も火災に遭ったに違いない。そもそも多武峯の妙楽寺自体の歴史にも謎が多いが、その山内にありながら○○院という院号でなく寺号で呼ばれた昔のこの寺の有り様が気になるのである。

  • 子安延命地蔵

    江戸の中頃、三輪の平等寺(大神神社の神宮寺の一つで平安の初め慶円上人によって創建され、中世から大御輪寺に代わって三輪明神の実権を握った)の長老玄心和尚が聖林寺に隠棲した。この頃から明治の神仏分離令によって神宮寺が滅びるまで、聖林寺と三輪の神宮寺の交流が繁く、天台寺院である妙楽寺の山内にありながら、聖林寺は真言宗の律院(戒律の厳しい寺)として後に述べる特異な性格を帯びることになるのである。
    享保の頃、この寺の僧文春は女人泰産を願って一念発起、大石仏造像の願をかけて諸国行脚の旅に発つ。寺伝では、和尚自身の姉が幾度も出産で難儀をしたと伝えているが、江戸時代にはお産で苦しむ婦人がこの界隈にも多かったのであろう。現在の本尊、子安延命地蔵尊はこのようにして和尚の四年七ヶ月に及ぶ托鉢による浄財で造像された。造像にあたって地蔵菩薩が文春和尚の夢枕に立ち自ら仏師を指定したという。 爾来、安産と子授けのお地蔵さまとして人々に親しまれてきた。聖林寺の子授けの祈祷は大要を真言密教の法則に拠っているが、又この寺独自のものがあり、霊験あらたかである。

  • 十一面観音

    十一面観音は、よく知られているように、かつては三輪山・大御輪寺の本尊であった。大御輪寺は奈良時代の中頃、大神々社の最も古い神宮寺として設けられ、十一面観音はその本尊として祀られてきた。
    神仏分離令を受けて、慶応四年五月十六日に三輪の地を離れられる。当時の住職は高僧大心(聖林寺再興七世)であった。三輪流神道の正嫡であり、東大寺戒壇院の長老であった大心以外にこの仏像を正式に拝める僧はなかったのだろう。巷間伝えられる、廃仏棄釈で放追せられたというのは事実ではない。なお、大御輪寺縁起によると、観音は、かつて四天王に守られ前立観音があり、左右に多くの仏像が並び立ち(現法隆寺の地蔵菩薩=国宝は左脇侍)背面には薬師如来一万体が描かれた板絵がある荘厳の中に祀られてきたという。ご自身も化仏三体を失っておられるが、かつては、美しい瓔珞で飾られ、きらびやかな天蓋の下におられた。現在、奈良国立博物館に寄託している光背は大破しているが宝相華文をちりばめた見事なものであろう。
    長い年月を経て多くのものを失ったとはいえ、これだけ保存良く伝わったことはそれだけでも稀有なことである。

  • フェノロサ

    聖林寺に移った観音さまは明治二十年、アメリカの哲学者フェノロサによって秘仏の禁が解かれ、人々の前にその美しい姿を初めて現した。この時、フェノロサの驚き尋常でなく、門前から大和盆地を指して、この界隈にどれ程の素封家がいるか知らないが、この仏さま一体にとうてい及ぶものでないと述べたと伝えられている。今に残る本堂脇の厨子は、その際フェノロサらが寄進したものであり、文化財保護施設の魅とも言うべき工夫がなされている。
    明治三十年、旧国宝制度ができると共に国宝に指定された。さらに、昭和二十六年六月、新国宝制度が発足すると第一回の国宝に選ばれた。この時指定された国宝仏はわずかに廿四を数えるに過ぎない。美術的な解説はいろんな書物に述べられているが、まことに、これ程美しく、その尊厳な姿に胸を打たれて、自然に手を合わせられる仏像は少ない。
    聖林寺には、十一面観音の他に、平安期の素文磬、南北朝期の観音浄土補陀落山図、室町期の如来荒神像など解説するに足る仏像、仏画、什宝があるがここでは割愛する。

    フェノロサ

    画像提供:日本フェノロサ学会
  • 学問寺

    この寺の学問寺としての性格にふれておきたい。
    江戸末から明治にかけて聖林寺は学問寺として大いに名声を得た。住持達は堅く戒律を守り学問をよくし世の尊敬を受けた。たとえば、この寺の中興、大桂和尚の高名は幾内一円に及んだ。その弟子で先に挙げた大心和尚は後に乞われて日本三戒壇の一、東大寺戒壇院を兼務するにいたった。郡山藩の大名行列も和尚の乗る駕籠に道を譲ったという。
    明治の初め、叡弁和尚はその学才を認められて法隆寺山内の北室律院に迎えられ、大いに真言教学の発展、整備に努めた。その後、一源和尚も又、北室律院に迎えられ、二代に亘って法隆寺に学僧を送り出すことになった。一源和尚は独自の灌頂の法則(受戒の作法)を確立した。今に、大和、河内の約七十の寺院が加入して和尚の徳を称えその法統を継ぐために一源派を結集している。叡弁和尚や一源和尚は河内の学僧慈雲尊者とも親交が深い。聖林寺の門前に建つ大界外相(律院の結界を示す)の碑が尊者の揮亳によるのもその縁によるものであろう。このような学僧輩出の背景に、幕末から明治にかけての宗教界の混乱期にあってこの小寺に住みした僧達の律僧としての矜恃のほどをみるべきであろう。

  • 最後に

    時代は流れて、戒律と祈祷の寺であった聖林寺にも拝観客が訪れるようになった。けれども、京都や奈良のように至便ではないことが幸いして、ここは観光客の喧騒には無縁である。緑なす木々に風わたる山の小寺は訪れる人に安らぎと思索の空間を保証している。境内の静寂を保つのも、あるいはこの寺の住持の務めの一つかもしれない。この寺を護るさだめを負い、経に言う「恒ニ作ス二衆生ノ利ヲ一」を契う筆者には郷土の哲学者・保田與重朗の次の歌ほど深く心に響くものはない。

    けふもまた かくて昔となりならむ わが山河よ しずみけるかも
    聖林寺 第12世住職(元住職) 倉本 弘玄
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