02.聖林寺の寺号

聖林寺の歴史には分からないことも多い。多武峯二十六勝志に見るように、この寺は談山・妙楽寺(現在の談山神社)の支院の一つであり、藤原定慧を開基としている。明治初頭の神仏分離のとき、談山山中の伽藍が尽く神社に改装され、山中の塔中すべて民家に還俗した中で、唯一仏教寺院として残る幸運を得たのである。
 さて、聖林寺という洒落ていて少々近代的な響きのある寺号は一体何に由来するのだろうか。

山添村の寺院から見つかった鎌倉初頭の写経

享保のころ、秋篠寺から妙楽寺に入った談山の座主、大僧正・子暁は当時遍照院と呼ばれていたこの寺に空号になっていた聖林寺を当てたという。ところが、元の聖林寺については、その存在さえ何時まで遡るのか分かっていなかった。近年(昭和六十二年)元興寺文化財研究所の調査で山添村の寺院から鎌倉初頭(一二〇五年)の写経が見つかり、それによってこの寺が意外に古いことが確かめられた。奈良時代と言わずとも聖林寺は鎌倉の初めには存在していたのである。聖林寺の有り様を示す古い遺物や資料は残念ながら何一つ残っていない。山寺の多くがそうであるように、誰が何年に建立したということでなく、信仰の場としていつのまにか寺院の姿を整えて妙楽寺の支院になったのであろう。その間、幾度も火災に遭ったに違いない。そもそも多武峯の妙楽寺自体の歴史にも謎が多いが、その山内にありながら○○院という院号でなく寺号で呼ばれた昔のこの寺の有り様が気になるのである。