06.学問寺

この寺の学問寺としての性格にふれておきたい。
 江戸末から明治にかけて聖林寺は学問寺として大いに名声を得た。住持達は堅く戒律を守り学問をよくし世の尊敬を受けた。たとえば、この寺の中興、大桂和尚の高名は幾内一円に及んだ。その弟子で先に挙げた大心和尚は後に乞われて日本三戒壇の一、東大寺戒壇院を兼務するにいたった。郡山藩の大名行列も和尚の乗る駕籠に道を譲ったという。

大界外相の碑

明治の初め、叡弁和尚はその学才を認められて法隆寺山内の北室律院に迎えられ、大いに真言教学の発展、整備に努めた。その後、一源和尚も又、北室律院に迎えられ、二代に亘って法隆寺に学僧を送り出すことになった。一源和尚は独自の灌頂の法則(受戒の作法)を確立した。今に、大和、河内の約七十の寺院が加入して和尚の徳を称えその法統を継ぐために一源派を結集している。叡弁和尚や一源和尚は河内の学僧慈雲尊者とも親交が深い。聖林寺の門前に建つ大界外相(律院の結界を示す)の碑が尊者の揮亳によるのもその縁によるものであろう。このような学僧輩出の背景に、幕末から明治にかけての宗教界の混乱期にあってこの小寺に住みした僧達の律僧としての矜恃のほどをみるべきであろう。